こんばんは。
今日は,一審の裁判員裁判での死刑判決が二審で破棄され,二審の判決が最高裁で支持されるというものがありました。
これは,東京都と千葉の強盗殺人事件です。
強盗殺人は,刑法上,法定刑が無期懲役と死刑しかないという極めて重い類型の犯罪です。
特に,千葉の案件は,さらに放火まで行い,余罪も多数あったという残忍な犯行で,当時は物議を醸したことをよく記憶しております。
これについて,一審の裁判員裁判では死刑判決が下されました。
しかし,二審の東京高裁では,先例等に鑑みて死刑は重すぎるとして無期懲役とされました。
そして,本日の最高裁判決では,その二審判決が維持されました。
私は最高裁判決の妥当性についてここで議論するつもりはありません。
この判決については様々な見方があると思いますので,これが妥当なのか軽すぎるのかということは申し上げません。
ただ,今回の判決は,今後の裁判員裁判の動向というものに対して非常に大きな影響を及ぼすのではないかと思いました。
最高裁司法研修所は,2012年,裁判員裁判の量刑評議のあり方に関する研究報告の中で,死刑については刑の重大さから公平さが特に強く求められると指摘し,先例を尊重すべきとの見解を示しました。
一方,千葉裁判長は,補足意見で,先例を基に,考慮すべき要素の重要性やその根拠を検討し,それを前提に評議を進めることを求めたのであって,過去の判例に固執すべきだといっているわけではないと述べました。
過去の判例を参考にすべきということは,同様な事例における判断の公平さを保ったり,自身の罪の量刑に関して予測可能性を示すこととなったりという意味で,非常に重要な要素であると思います。
また,市民感覚に重きを置けば,どうしても犯罪と縁のない一市民にとっては量刑は重くなる傾向になると思いますし,そういうものに歯止めをかけるのはある意味司法の役割であろうとも思います。
ですが,一方で今回問題であると思うのは,司法に縁のない市民が,数日間の生活を犠牲にして悩み抜いて出した結論が,先例等を理由に破棄されてしまったとすれば,初めから職業裁判官が先例等に従って判断を下せばよいのだから付き合いたくないというように思われてしまうことだと思います。
特に,死刑という判断は,人の命を奪うという判断であり,そこに立ち向かうにはある意味強い覚悟の要ることだと思います。
そうして覚悟を決めて死刑の判断をし,判決に市民感覚というものが反映されたにもかかわらず,結局それが職業裁判官の手で結論が変えられてしまうのは,参加意欲をなくす方向になってしまうのではないでしょうか。
特に,裁判員制度は市民感覚を判決に反映させるための制度ですが,それが変更されてしまうとすれば市民感覚とは,裁判員制度とはという思いが生じることは想像に難くありません。
だからといって,市民感覚をそのままというのが必ずしも正しいというつもりもありません。
ですから,結局必要なのは多数に納得をしてもらえるような説明だと思います。
私は,個人的にはその説明が欠けているのではないかと思います。
判決理由に先例,公平などのキーワードを挙げたとしても,それで説明を尽くしたというには足りないように思われ,もう少しこの点に関しては努力が必要なのではないだろうかと思うのです。
この努力を怠れば,最終的には裁判員制度の協力者が減少してしまいかねませんから,その点については今後よく考えてもらいたいと思いました。
また思いついたら書きます。ではでは。
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