こんばんは。
今日,いわゆる三鷹バス痴漢事件の東京高裁で無罪判決が下されたので,この件を取り上げてみたいと思います。
この事件は,一審判決が下された時,その判決内容が非常に問題であるとして物議が醸されたものです。
私は全ての証拠関係を知っているわけではなく,報道で見ている限りなので情報が限定されておりますが,それを前提に以下書いていきます。
犯人とされる男性は,バスの中で痴漢をしたとされておりますが,報道中本件で主に問題といわれていた証拠は,バスの車載カメラと繊維痕に関する証拠だと思われます。
バスの車載カメラですが,男性の右手はつり革を持っていて手が腕が伸びきっているという状況でした。
男性と被害者とされる女性との距離が相当程度離れていて,その状態で左手で痴漢行為を犯すことは無理であるという主張がなされていました。
その後,男性は,左手につり革を持ち替え,右手で携帯電話を操作しておりました。この際,両手を使っている以上,痴漢行為はできないという主張がなされました。
しかし,一審判決では,ビデオ鑑定中20秒間左手の状況が不明な時間があり,その間に右手で携帯電話を操作しながら左手で痴漢行為をすることは容易ではないが不可能とまでは言えないと判断しました。
もう一つの証拠として,繊維痕に関する証拠である微物鑑定が上げられます。
痴漢行為を行った場合,手に被害者の衣類の繊維の一部が微細にも付着することが考えられますが,本件ではこれが存在しませんでした。
そして,これらの証拠を含め,全ての証拠関係を前提として,一審判決は有罪と認定しました。
この判決について,東京高裁では,車載カメラより痴漢を認定しがたいと判断しました。
その上で,一審判決については,証言を全面的に信用したのは誤りで,論理の飛躍があり,慎重さを欠いていたとしました。
刑事判決においては,一般的にいわれているとおり,「疑わしきは被告人の利益に」という原則があります。
また,刑事事件において有罪の立証責任は検察側が負っており,被告人側は無罪を立証しなければならないのではなく,検察側がきちんとした証拠をもって立証に失敗すればそれで無罪になるという構造なはずです。
ところが,実際の刑事弁護を経験すると,検察の立証が多少失敗し,証拠関係に危ういところがあったとしても無罪とするケースはほとんどないように思えます。
今回の高裁判決は,その原則に戻って判断を下したのではないかと思われます。
私もこれまで痴漢の無罪主張の弁護を何度か経験したことがありますが,極めて厳しい戦いを強いられております。
裁判所の大半は,客観的な証拠に乏しい事案だったとしても,被害者の証言の信用性を軸に有罪判決を下しているように思われます。以下に述べますが,今回の事件の一審判決もそのようにしたのだと思います。
私のこれまでの経験からすると,結局痴漢弁護においては被害者の証言の信用性を崩すことが最重要課題であり,その信用性が認められれば客観的な証拠関係に多少の矛盾や齟齬があったとしても有罪判決を下してしまうように思います。
この事件の一審判決にいう「右手で携帯電話を操作しながら左手で痴漢行為をすることは容易とは言えないが不可能とも言えない」についてですが,おそらくこれはカメラの映像から有罪を認めたというものではないと思います。
すなわち,あくまで一審判決の有罪認定の軸は被害者の証言であり,車載カメラは被害者証言がカメラと矛盾するから信用性がないという主張をするための材料だったのではないかと思います。
そして,一審判決では,左手で痴漢行為をすることも不可能ではないから,被害者証言の信用性を認めないという材料とまでは言えないという判断となったのだろうと思います。
一方,高裁判決は,有罪認定の軸とされた被害者証言について,そもそも車載カメラと比較すると信用性を全面的に認めることは難しいとして,無罪判決を下しました。
この態度は刑事裁判の原則からみて,有罪認定の軸となる重要証拠の認定においては慎重になすべきという発想から判断したということなのでしょう。
痴漢事件の多くはカメラなどに収まっておらず,今回の事件はカメラがあったからこそ救われたというように思えます。
よって,この判決が世の痴漢事件に風穴をあけるという位置づけになるかといえば,私はそこまでのものではないだろうと推測します。
ですが,痴漢事件の多くで採用されている,安易な被害者証言の信用性の判断の傾向に対しては一定の注意喚起をなせたものではないかと思っています。
痴漢事件自体は許し難い犯罪行為ではありますが,一方でそれを罰するために冤罪を広く認めるという傾向には納得はできず,今回の判決が流れを変える契機になればなと思います。
また思いついたら書きます。ではでは。