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 こんばんは。

 今日のニュースを見ていたら,先の震災で津波の中唯一残った陸前高田市の高田松原の松,通称「奇跡の一本松」に関するものを見ました。
 この松は,震災の津波に耐えながらも枯死してしまい,その後幹に防腐処理をしたり,枝葉をレプリカで再現したりして復元することになったということでした。
 陸前高田市は,この復元に必要な費用として約1億5000万円の寄付を募り,これまでに1億2500万円が集まったそうです。
 そして,復元作業を進めてきたのですが,以前と姿が違うなどの指摘を受けて枝の取り付け部分の角度などを調整することになったということでした。
 今回の作業では,高さ約27メートルの一本松のうち,地上から約20メートルのところの幹と枝2本を切断し,3カ所の接合部分の角度を調整して際設置するということでした。
 その作業は6月末に作業を終え,7月上旬に完成式典を行う予定ということです。
 なお,このやり直し作業に伴う業者との契約額には変更はないということでした。

 私は,復興のシンボルというのは大事なものであると思っています。
 というのは,私の個人的な意見としては,帰るところのある人は精神的に強いというように思っていますが,シンボルというのは自分が迷った時に振り返るべき原点になると思うからです。
 ですから,多少お金をかけてでもシンボルを築き上げ,復興に頑張る人たちに原点を設定するというのは考え方としては間違っていないと思っています。

 また,もし観光名所になれば,その分困っている地方にお金が落ちていき,経済が活性化するきっかけになる可能性もあると思いますし,その意味でもシンボルができるのはいいことのように思います。

 一方,今回の件についてはやや疑問があります。

 確かに,かつての松に似せる方が原点としてのシンボルになりやすいとは思います。

 しかし,そもそもこの松は,津波にも耐えた生命力の象徴であることこそが重要な点であると思いますが,枯死してしまった後にもレプリカで形だけ残すというのは,生命力の象徴であるという趣旨に反するのではという素朴な疑問があります。

 また,松を往年の姿に再現しようとする努力はあるとして,その角度等が異なっていたからということでプラモデルのように付け替えたりする必要まであるのかなというようにも思ってしまいます。
 メインが松をよく知る地元の人たちのシンボルであるならば,元々の松に似せる必要は感じるのですが,もし不特定多数の震災被害者に対するシンボルであったり観光名所目的に重点を置くのであれば,文字通り枝葉末節の部分にこだわる必要があるのだろうかと思ってしまうところです。

 設置業者はやり直し作業に伴う契約額を変更させていないということですが,今回のやり直しは一度目ではなかったと思います。
 そうすると,自腹でその作業にお金と時間をかけて担当することになるのでは,別のところにその分の労力をかけた方がいいのではというようにも思ってしまうところです。

 加えて,作業を行うに当たって,元々の姿を知っている人たちから聴取した上で誤りがないように作業をしたのか疑問です。
 近年の画像解析技術を考えれば,今回のような三次元立体模型類似物を作成するにしても,おおよそ構想通りに作れそうに思います。
 しかし,何度もやり直しをしているところを見ると,きちんと計画性のある作業だったのだろうかと思ってしまいます。

 総じて見て,私としては,ある程度まではシンボルを作る作業は大事だと思いますが,ある程度以上はコストをかけてまでやるべきものだろうか,その労力を別の復興事業に避けないものだろうかと思ってしまうところです。
 特に,仙台の大学に通っていた私としては,岩手の冬の大変さはよく分かりますから,今は作業をするにはちょうどよい時期なのに,この松に関わりすぎていていいのだろうかと心配になります。
 それに,人工物である以上,この松にも多少なりとも維持費がかかるわけで,今後そのコストを震災復興予算をやりくりしなければならない自治体が被るのは果たして合理的な考え方なのだろうかというようにも思うところです。

 私は被災地にいない人間なので,現地の苦労を分からずにそのような妄言を発しているだけかもしれず,そのようなことがあればここでお詫びしたいと思います。
 いずれにせよ,復興が進むことを願うばかりです。

 また思いついたら書きます。ではでは。
三枝康裕 | ニュース | comments(0)  | trackbacks(0) | 23:30

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